大阪家庭裁判所 昭和41年(家)5219号 審判 1966年9月22日
申立人 牛田咲子(仮名)
相手方 牛田晃(仮名) 外一名
事件本人 牛田タツ子(仮名)
主文
申立人は、事件本人を引き続き申立人方で扶養しなければならない。相手方牛田晃は、申立人に対し事件本人の扶養料として金三万〇、七七四円を即時に、昭和四一年九月一日から一ヶ月金四、〇〇〇円づつを毎月末に申立人方に持参又は送金して支払わなければならない。
相手方大杉艶子は、申立人に対し事件本人の扶養料として金八、二八八円を即時に、昭和四一年九月一日から一ヶ月金二、〇〇〇円ずつを毎月末に申立人方に持参又は送金して支払わなければならない。
理由
本件調査の結果によると、次の事実を認めることができる。
相手方大杉艶子は、牛田八郎と牛田ハマとの間に長女として明治四四年六月一二日に出生し、相手方牛田晃は、同長男として大正三年九月五日に事件本人牛田タツ子は、同二女として大正八年一一月一六日に出生し、申立人は、同三女として大正一四年八月一日に出生した者でいずれも兄姉妹の関係にある者である。上記父八郎は、昭和一三年九月二八日に、母ハマは、昭和四一年二月七日いずれも死亡した。
事件本人は、幼時より精神遅滞があり、未就学で文字の読み書きや金銭の計算は全然できず、数百メートルの距離になると道に迷うのを常とし、現住所附近でも数回行方不明となり保護願を出されたことがあり、洗面や大小便は他人の手をかりずにできるが、複雑な着物を身につけることは困難で、調理も殆んどできず、茶をわかすことも望めない位日常生活においても著しくその能力を欠いている。従って、事件本人は、母ハマの生前においては、昭和三一年頃から申立人に母とともに引き取られ、昭和四一年二月七日母ハマの死亡する直前まで身の廻りの世話などを母にしてもらっていたが、母の死亡後は申立人に扶養されるとともに身上監護をも受けていた。申立人は、他に兄相手方晃、姉相手方艶子があるのに母の死後自分だけで事件本人を扶養しかつ身上監護をすることは、勤務にも支障があり、経済上も負担能力がないとして、相手方らを相手方として昭和四一年四月二日扶養の程度方法協議の調停の申立をした。上記調停中調停委員会のすすめと調査官の尽力により、事件本人は、同年五月二三日福祉事務所を通じ八尾市○○○○一二九番地○○病院に入院させられ(保護義務者は申立人)、病名ノイローゼとして鎮静剤投与等の治療を受けた結果軽癒したが、急性肝炎にかかったためなおその治療を要する状熊にあるが、○○病院が精神科専科のため自宅療養を指示され、同年六月二一日に退院し、申立人方に引き取られ、申立人の扶養と身上監護を受けている。
申立人は、昭和一九年広島女子専門学校受験のため、台湾○○市から内地に来て母の郷里の山口県○○に身を寄せたが、その後台湾航路が途絶し、送金がなくなり母方の伯父宅に寄遇し、昭和二一年三月母ハマと事件本人とが台湾から引き揚げて来て上記伯父方で再会同居した。申立人は、昭和二三年相手方晃から母に送金がありその住所を知り、同人のあっせんで大阪に来て一時相手方晃方に止宿し建設会社の事務員に就職し、数ヶ月をすごすうち兄嫁恭子と不和となり、同相手方方を出て○○金属に勤めていたが、月給が安く母や事件本人に対する送金ができないため退職し、東住吉区○○○の経理事務所に就職し勤務中、税理士南為一郎と男女関係を生じ、同棲四年にしてその関係は解消されたが、両名の間に昭和二九年八月一二日に智子が出生し昭和三九年一二月二三日に認知されているが、智子の扶養料は南為一郎からは貰っていない。申立人は、昭和三一年に現住所の家を約金二〇万円で買い、母ハマ及び事件本人を引き取り爾来同居するようになった。上記家屋は、いわゆる長屋ではあるが炊事場を入れて三室あり、狭い家とはいえない。申立人は、その頃から○○ゴムに就職し、経理係として約九年間勤め、月収金一万九、〇〇〇円で生活費に不足するので経理事務の内職による月収金五、〇〇〇円ないし金六、〇〇〇円で補っていたが、昭和四〇年現在の○○印刷株式会社に移り経理事務を担当し、月収は平均金二万五、〇〇〇円ないし金二万六、〇〇〇円(うち皆勤手当金一、〇〇〇円)を得ているが、不足するので経理事務の内職をして補っている。申立人は、上記のように事件本人の扶養、身上監護をしているが、事件本人が鎮静状態の時は安心して出勤できるが、事件本人の昂奮状態になったこときには、火の仕末、自傷行為、拒食行為のため不安があるため、よく欠勤することがある。しかし、事件本人は、上記のように永年にわたり申立人と同居し申立人の子智子も幼少の頃から事件本人と生活をともにしていたので事件本人に理解と同情とを持ち上記退院の際も「できるだけの世話をするから引き取ったら」といっている。申立人も事件本人を引き取り扶養する意思ではあるが、事件本人の生活費としては少くとも一ヶ月金八、〇〇〇円を要し、これを自分だけで負担する能力はない。しかし、申立人は、母ハマの死後は、相手方らが扶養料等の負担を拒むのでやむなく自分だけの費用で事件本人を扶養監護し、上記入院費用等合計金一万八、〇一六円をも支払っている。
相手方艶子は、昭和三年台湾○○市で高等女学校を卒業し、昭和九年に大杉精道と婚姻し、同人との間に長男(九歳で死亡)、長女国子、二女正子、三女典子、二男寅二をもうけた。相手方艶子は、昭和二一年春夫の郷里熊本県八代郡○町に夫や子らとともに引き揚げたが、夫が同年一一月死亡したので、母ハマの郷里山口県○○に子らとともに転居した。昭和三八年すでに結婚していた長女国子のすすめで大阪に来て都島区○○町三丁目で住込み寮母として働くようになり、昭和三九年四月から○○○○工事株式会社の嘱託となり、寮母として勤務し、手取平均約金一万八、〇〇〇円の給与を受け生活費としては食費不要、被服費の外生命保険月掛金五、〇〇〇円と小遣銭若干を要する程度であったが、胃潰瘍、慢性胃炎の病気となり昭和四一年八月五日から病気欠勤し、長女国子の夫村田則夫方に一時同居して療養中であるが、上記会社を退職しておらず、傷病手当金一日金六七〇円の六〇パーセントである金四〇二円を受給することができることになってる。しかし、相手方艶子には、他に特記するに足る資産収入はない。相手方艶子は、上記のように台湾から引き揚げてから夫と死別し、四人の子を養育することにおわれ(引き揚げてから母ハマの世話になったこともある。)母ハマや事件本人の世話まですることができなかった関係上同人らの扶養を申立人や相手方晃にまかせたままであり、母死亡後も積極的に事件本人に対する義務を履行していない。
相手方晃は、台湾○○中学校、○○工業専門学校を卒業し、昭和一七年恭子と婚姻し、昭和二〇年四月九日その届出をし、両名の間に長女澄子、長男昭郎、二男和敏、三男泰三をもうけた。相手方晃は、昭和二一年三月家族とともに内地に引き揚げ妻の郷里岡山に帰った。相手方晃は、農業用ポンプ会社に就職したり、一時警察官になったりしたが、昭和二三年一月○○電力株式会社に技手として入社し、発電所や本社等の職場を経て昭和四一年から現在の○○第三発電所P・R館に技師として勤務しており、昭和四〇年度の総所得金一一二万六、二七九円(税込)を得ており、昭和四一年一月分の給与は、手取金五万五、一三一円、同年六月分は、手取金五万〇、八七七円であり、六月と一二月の賞与月に一年を通じ月給の五ヶ月分の賞与金を受けている。相手方の家族中長男昭郎は、大阪府立○○○工業高等学校を卒業後○○製作所大阪営業所に就職し同会社の独身寮に別居していたが、昭和四一年六月から同居するようになり、長女澄子は、私立高校を卒業後○○電機に勤めたが昭和四〇年に退職し、家事の手伝をしており、最近縁談が数回あったが、事件本人の存在のために破談となったとのことである。二男和敏は、兵庫県立○○高校三年に在学中で来年大学受験の予定で、三男泰三は、公立中学三年に在学中で来年高校に進学予定である。相手方晃は、上記収入と月賦で買った乗用自動車マツダ・キャロル一台を所有する外他に特記すべき財産を有しない。しかし、相手方晃は、父八郎が同相手方の二四歳の頃死亡したため、母ハマの扶養のためにその後送金を続け、昭和三六年には金八万三、〇〇〇円、昭和三七年には金八万円、昭和三八年には金三万四、〇〇〇円、昭和三九年には金四万八、〇〇〇円、昭和四〇年には金五万二、〇〇〇円、昭和四一年一月には金三、〇〇〇円(上記金額の中には物品を金に算換したものを含む。上記三六年から四〇年までの五年間の平均額は年額金五万九、四〇〇円である。)を母ハマに送金又は交付し、母ハマはこれと申立人から貰い受ける扶養料とによりその生前自己と事件本人との生計をたてていた。しかるに、相手方晃は、母ハマが昭和四一年二月七日死亡すると、申立人や相手方艶子及びその家族らとの間に紛争を生じたことや、事件本人の扶養の程度方法等につき互に徒らに感情的となり、事件本人の扶養のための金員を支出しなくなった。
申立人は、昭和四一年四月二日本件申立をし、当裁判所において同年四月一三日午後一時に第一回調停期日が開かれ、当事者双方が出頭し、調停が行われ、その後同年八月五日まで六回調停期日が開かれたが、当事者間において合意が成立せず、調停は不成立となった。
上記事実によると、事件本人は、本件調停申立以前から既に扶養を要する状態であり、その状態は現在もなお存続していることが明らかであり、申立人は、事件本人の妹、相手方艶子は、事件本人の姉、相手方晃は、事件本人の兄であるから、いずれも事件本人を扶養すべき身分関係にあるものである。事件本人は、上記認定により明らかなように日常生活における能力が著しく欠けており、身上監護をも要する常況にあるのであるから、救護施設へ入れる方法も考えられるが、自費負担となれば、その費用が自宅扶養の場合(上記のとおり一ヶ月金八、〇〇〇円)よりも多額の費用を要するものとみなければならないから、本件においては適当ではない。本件においては、上記認定の事実によると、申立人において事件本人を引き取り扶養をするのが相当であるが、その扶養料は、少くとも一ヶ月金八、〇〇〇円を要するところ、申立人や相手方両名の資産収入、家族関係、その他諸般の事情を考慮すると、相手方晃は、従来の母ハマへの送金又は交付の実績と同様に少くとも一ヶ月金四、〇〇〇円の負担能力があるもの、相手方艶子は、少くとも一ヶ月金二、〇〇〇円の負担能力があるもの、申立人も従来事件本人を扶養して来た実績に徴し、引取扶養の上一ヶ月金二、〇〇〇円の負担能力のあるものと認めるのを相当とする。
扶養料は、少くともその請求のあった後の分につき、扶養義務者にしてその能力を有する者は、その義務を履行すべきであると解すべきところ、申立人は、昭和四一年四月二日本件調停の申立をし、その第一回調停期日である同月一三日に相手方らに対し扶養の程度方法の請求をしたこと上記認定のとおりであるから、同月一四日から相手方らは上記扶養能力に相当する割合の扶養料、すなわち、相手方晃は、一ヶ月金四、〇〇〇円、相手方艶子は、一ヶ月金二、〇〇〇円の各割合による事件本人の扶養料を申立人(申立人は、引取扶養と一ヶ月金二、〇〇〇円の扶料養を負担)に対し支払う義務があるものというべきである。しかし、上記認定のとおり、事件本人は、昭和四一年五月二三日から同年六月二一日まで○○病院に入院し、その入院費等合計金一万八、〇一六円を申立人が支払っているので、まずこの分の分担額につき考えるに、本件調査の結果によると事件本人は、昭和四一年八月三一日まで相手方晃の所属する○○電力健康保険組合兵庫支部に対する関係では、同相手方の被扶養者となっており、上記入院も相手方晃の被扶養者としてなされ、入院費等が現実には申立人から立替え支払われたが、保険組合員である相手方晃の申請により上記支部から上記入院費用等の内五月分金三、四〇〇円、六月分金一万〇、八〇〇円、合計金一万四、二〇〇円の還付金の支払が決定され、同年九月一四日がその支払日となっており、相手方晃においてこれを取得することができることとなっていることを認めることができるから、相手方晃は、これを受領の上は申立人に支払うべきは当然である。そして、上記入院費等金一万八、〇一六円と上記還付金一万四、二〇〇円との差額金三、八一六円は、本件当事者が上記認定の割合(相手方晃は、二、その他の両名は各一)により相手方晃が金一、九〇八円、申立人と相手方艶子がそれぞれ金九五四円を分担すべきである。上記入院期間を除いた昭和四一年四月一四日から同年八月三一日までの一一〇日間については、一ヶ月金八、〇〇〇円の全体の扶養料を上記割合により計算すると、相手方晃の分担額は、合計金一万四、六六六円(円以下切捨)、申立人と相手方艶子の分担額は、それぞれ合計金七、三三三円(円以下切捨)となることが算数上明らかである。
そうすると、事件本人の扶養料として申立人に対し、相手方晃は、既に履行期の到来した合計金三万〇、七七四円(上記還付金を含む。)を即時に、昭和四一年九月一日以降一ヶ月金四、〇〇〇円づつを毎月末申立人方にいずれも持参又は送金して支払う義務があり、相手方艶子は、既に履行期の到来した合計金八、二八七円を即時に、昭和四一年九月一日以降一ヶ月金二、〇〇〇円づつをいずれも上記と同じ方法で支払うべき義務があることが明らである。
よって、民法第八七九条、家事審判規則第九八条、第四九条により主文のとおり審判する。
(家事審判官 岡野幸之助)